スペインで偶然に出会った一冊の本   ;PUENTEFUENTEホーム     プエンテフエンテ 2004年1月、 4月、6月、2005年年10   

 

『 レオナルド・ダ・ヴィンチの料理手帖』

 

東京に住む奇才の友達がクリスマス用にと七面鳥の丸焼きのレシピーを聞いてきたところが、さっぱり知らなかった私は近くの古本屋に足を向けて料理コーナーを見ていたところ、レオナルドの名前を見つけ不思議に思ったものです。彼が、超人建築家、彫刻家、画家だったことは知っていましたが、コック長として料理をしたり、調理器具を考案したりしていたことは初耳だったからです。

この本のオリジナルは英語版で1987年にWilliam Collins & Sons Co.から「Leonardos  kitchen note books.  Leonardo da Vincis notes on cookery and table etiquette」と言うタイトルで出版されたされたものです。スペイン語版に翻訳出版されたのは1993年です。100品以上のレシピーやテーブルセッティングの心得や材料についての注意書きの他、レオナルドが発案したコルク抜き、スパゲッティ製造機、こしょうミル、換気扇つき自動オーブン機などのデッサンも見ることが出来ます。

(翻訳者注意書き フィレンツェ時代に関しては、要約となっております。少しずつ詳細をたしていく所存です。2005103日)

 

目次  ;

フィレンツェ時代

生い立ちと幼少青年時代

ミラノ時代

『最後の晩餐』200510月追加

 

 

 

レオナルド・ダ・ヴィンチの料理手帖

 

フィレンツェ時代

生い立ちと幼少青年時代

     1452415日、フィレンツェの公証人であった父ピエートロ・ダ・ヴィンチと、ヴィンチ村の貴婦人カテリーナの子息としてフィレンツェ近くのヴィンチ村に生まれたレオナルド・ダ・ヴィンチでしたが、生まれて何ヶ月とたたぬまに両親は離別し、各々に結婚しレオナルドは二つの家庭の間を行き来しながら育ちます。義父は大変な甘党で、レオナルドは義父の影響を受けて菓子を作り始めてから料理の繊細なる芸術に興味を持ち始め、その情熱は生涯切っても切れぬものとなります。10歳の時に実父の命令により基本的フォーマルな教育を受けるためにフィレンツェの父方の家で義兄弟たちとともに生活をし始めてから義父とも会う機会が少なってしまいます。

 1469年(17歳)父親は、当時彫刻家、画家、工学士、幾何学氏として名の知れたベッチオのアトリエへ弟子としてレオナルドを入門させます。そのアトリエにはボッティチェリもいました。3年後にベッチオのアトリエで働く傍ら、フィレンツェ・ベッキオ橋の近くにある居酒屋『三匹のカタツムリ』で働き始めますが、1473年の春に居酒屋で働いていたコック達全員が不明の食中毒で亡くなってしまったことからレオナルドはコック長として任命されます。現在では【新しい料理】ともてはやされたに違いないレオナルドの料理はその当時のフィレンツェの人々には全く受けいれられませんでした。レオナルドの料理に関する熱狂的傾向はとどまる事を知らず、この時期からいろんな調理器具の発明をし始めたり、またこの料理メモを書き始めたようです。その中にはひき肉器、洗濯機、くるみ割り器もありました。

 1478年この居酒屋が燃火してしまった時、それまでの生涯の中で絵描きとして最も重要となった教会の祭壇背後の飾り立ての制作の依頼が来ましたが、レオナルドは拒み、ボッティチェリと共に『サンドロの3匹の蛙』という名の居酒屋を開きます。メニューについてボッテェチェリはこう言いました。「誰が右から左へと書かれているメニューを理解できるんだい。」 当時のフィレンツェの社会は煌びやかで豪華なものを好んでいたので、レオナルドの用意する4切れの薄切りの人参の上に一切れのアンチョビーがのった簡素なメニューに感動することは無く、居酒屋は客を呼ぶことがありませんでした。それから3年間はレオナルドにとって試練に耐えるものとなり、フィレンツェ中のどの居酒屋も彼をコックとして雇うこともなく、レオナルドはレオナルドで断固としてメニューを変えることを考えもしませんから、居酒屋の主人たちはレオナルドのメニューを客に無理強いさせることは到底出来なかったわけです。レオナルドは料理に没頭していたため絵の制作に戻ることは全く考えていませんでした。いつも道端に座ってはデッサンをしたり、リュートを奏でていました。

その間唯一彼が活発にしたことはダイビング梯子と槌の発明デッサンで、当時カトリック・ローマ法王と小さな戦争を繰り広げていたフィレンツェの支配主ロレンツォ・メディチに、戦闘補強への貢献となる意図で、発明武器の型で作ったクッキーとマサパン(アーモンドを原料とした菓子)を贈りました。レオナルドの意図を理解できなかったロレンツォは、それらの変な形をした駄菓子を晩餐招待客に差出し食べてしまいます。レオナルドは発明の報酬として1銭も受け取ることも、発明を認められることも無く、ましてや教会の飾り立ての依頼に戻る気にもならず、二度目の料理人としての試みに失敗して失望のどん底に叩き落されました。彼は荷物をまとめてフィレンツェから去ることを決意した時、そんなレオナルドの決意を知ったロレンツォはレオナルドが丹精こめて作った菓子の見本を食べてしまったことを後悔していたこともあり、ミラノの支配主に推薦状を出すことにします。しかし、レオナルドは余りの失望のどん底にいたために、料理人としても、画家としても推薦されることを拒み、リュート奏者の名手として推薦されます。

 

ミラノ時代

1484年レオナルドは、ロレンツォの推薦状の他に彼が書いた自己紹介文を手に音楽家の友人アタランテ・ミイグリィォロッティと共にミラノへと旅立ちます。この文は下記のものです。

私は橋や、要塞工事、又投石器など、その他の秘密兵器を発明できることも無く、この分野において専門家とはとても言い切れません。私の絵画や彫刻は特に卓越したものでもなく、他の多くの画家たちの絵画とそう変わるものでもありません。私はなぞなぞを語る名人であり、又すべて形がマチマチなクッキーを作る料理人です。

この余りの謙遜深い自己紹介文を読んだミラノ支配主ルゥドビコ・スフォルチャ公は当惑したものの、レオナルドに宮廷サロンにてリュート演奏を許可し、その演奏の素晴しさに聴衆は感動しました。彼が音楽サロンから退場する際には、もう彼の安定された将来が保証されていたのでした。その時、レオナルドは彼が単なる芸術家でもなく、平凡なる作家でもない、【彼が理想としていた一人の人物】であると感じたのでありました。

     しかしながら、ルドヴィコ公は初めのうちは、単に宮廷の人々の食後の娯楽のためのリュートを奏でたり、歌ったり、なぞ謎解き、クイズ、ジョーク語り、あるいは結び目披露といった事しかレオナルドに命じません。ルドヴィコ公はレオナルドが見せた補強壁の図形にはまったく興味を示さなかったようでした。そうこうするうちに、ルドヴィコ公が生活の中の感性的快楽に魅かれているということに注目し、以前ロレンツォ・メディチのために作ったマサパンと同じ要領で、プルプルと震える砂糖入りのゼラチンで補強壁デザインの型を作ることを思いつき、実行に移しますが、ロレンツォのときと同様にただ食べられてしまうのでした。いったいどれだけの数のレオナルドの発明が、このような運命にたどり着いたかは定かではありません。

     レオナルドの才能を多いに使って考案できるものが他にも山ほどあったことは確かでした。宮廷の淑女たちの肖像画も余り気乗りせずに描いていましたが、実際に多くの肖像画を書き始めても、描き終えるのはほんの少しでした。さらに、実物大より四倍もあるルドヴィコの父親の馬上彫塑も制作していたのでした。それから、スフォルツァ夫妻の姪が結婚することになり、その特別の晩餐会を用意する段階で、フローレンスでは何の成功も果たせなかった彼の「新しい料理法」を日の目に当てる絶好の機会であると思い、この大晩餐会のメニューをルドヴィコに見せます。なんとも信じられない顔をしたルドヴィコに、大盛り皿には各招待客にこんなメニューでございます。とレオナルドは言った。

 

レオナルドの考えた結婚式用の晩餐メニュー

蛙の形をした薄切りのかぶの上に巻かれた一つのアンチョビー(あらかじめ上から見てかえるの形に彫ったかぶを薄切りにした一枚)

芽キャベツのまわりに巻かれたひとつのアンチョビー

一本の美しく彫られたにんじん

アルカチーフの芯

一枚のレタスの上に置かれた真ん中から縦に半分に切られた小きゅうりピクルス

クルッカ(ズグロムシクイ属の鳥)の胸肉

タゲリ鳥の卵

子羊の睾丸の冷たいクリームスープ

タンポポの葉っぱにのった一本のかえるの足

骨抜きにしてゆでられた羊のひずめ

 

    待っていましたとばかりに、ルドヴィコはそれらのメニューは頭に描いていたものとは似ても似つかぬものであるといいました。レオナルドのメニューはスフォルツァ家がいつも招待客にもてなすレベルの料理でないことと、また、遠く遥々やってくる招待客たちが食することができるものではないということを、そっと言い聞かせました。そうしてルドヴィコがレオナルドに注文させた材料はスフォルツァ家の出費帳によって明らかにされています。

スフォルツァ家の晩餐会の材料

 

@ボローニャ産の豚の脳みそソーセージ    600

Aモデーナ産のツァンポーネ(豚足の詰め物) 300

Bフェラーラ産の丸型クッキー        1200

C子牛、雄鳥、ガチョウのステーキ     200人前

D孔雀、白鳥、さぎ      60人前

Eシエナのマサパン

F巨匠協会の判つきゴルゴンツォーラ産のチーズ

Gモンツァ産のひき肉

Hベネチア産の牡蠣           2000

Iジェノアのマカロン

Jかなりの量のチョウザメ

Kしょうろ(トゥリフ、松露科のきのこ)

Lカブのピゥーレ

 

     こういった類のメニューはそれから後に、レオナルドがルドヴィコが催す晩餐会には必須の材料となりました。しかしながら、ルドヴィコはその時、あまりにもエキセントリックではあるものの、少なからずレオナルドが料理に関心があることを知り、ミラン市中に在るスフォルツァ大宮殿、『カステージョ』の調理場の新しい計画を命じました。

      その瞬間から一年半後まで、ルドヴィコと、宮廷に住む100人以上の宮廷人はカステージョでいったい全体何が起こっているのかを理解する術もありませんでした。

      すぐさま、レオナルドは彼が最低限必要なものをリストとして書き上げました。

まずは、いつでも使えるように常火が必要です。さらに、いつも沸騰しているお湯があることです。そして常時きれいに磨かれた床であること。また、洗う・つぶす・薄切りにする・皮をむく・切る器械が必要。それから、甘くよい香りのする環境であるために台所の湯気や悪臭を取り除く発明機械が必要でしょう。そうです、それから音楽も必要です、というのは音楽があれば、台所で働くものたちを愉快にしてさらに働く意欲が湧くからです。そうそう、最後に飲料用水がめのかえるたちを退治する発明機械が必要。

 

      書き終えてから早速、現在では王室宮殿と呼ばれ、その当時はベッチオ宮廷エル・カステージョにおいて娯楽のために常に開かれた劇場の巨大なアトリエに腰をすえて発明を始めました。レオナルドはまず基本的なことから考案し始めました。ある決められた薪の形や長さによって、よく燃えたり、または加熱具合が違うのだろうかと疑問に思いました。何日間も火について実験を繰り返し、さまざまな大きさ、形の違った薪を燃やしては、ひとつひとつ燃えつきる時間、加熱温度を測り、メモしていました。結局のところ、薪の大きさに関係なく、量の問題であると結論を出しました。それから切った薪を自動的に火元に送る運搬用ベルトを発明しました。こうすることで、火に薪を加える人手が省かれるのですが、それでもまだ台所の裏側で四人の人員と、八頭の馬の力によって円形のこぎりが動いていました。

     《自動オーブン機》も考案しました。それまで、ひとりの料理人が肉を焦がさないように焼き串を一日中回していたものですからこの発明でまた人間による作業が機械によって代行されました。それはこんな考案でした。オーブンの真上の排気口にスクリューを取り付け、このスクリューは上昇熱気によって回りますが、スクリューを焼き串とつながれた歯車伝動装置に接続することで焼き串は自動的に回ります。

「焼き串は火の加熱具合によって、ゆっくり回ったり、早く回るということである」とレオナルドは考案図の下にメモ書きをした。これは世にも有名なレオナルドの手書き本『Codex Atlanticus』,ミラノ図書館所蔵に収めてあり、またミラノの科学工学博物館には実際に使うことができるこの模型があるそうです。

     《沸騰した湯の常時確保》については炭を使った湯沸かし器を考案しました。金属製のいくつものねじれた導管をつなぎ合わせた、まるで蛇がとぐろを巻くような形のチューブを炭の燠の上にのせたそうです。それでも、いつも導管に水を継ぎ足さなければなりませんでした。この発明は、以前には一人の女性がなべで湯を沸かしていたほど能率が上がったとは言えませんでしたが、啓蒙主義の時代に生れ落ちたレオナルドにとってはこちらの発明のほうが、この主義の観念と合っていると確信したことを宮廷作家のマッテオ・バンデェーリに語りました。

     《いつも清潔な床》については二頭の水牛に直径1.5メートルの回転ブラシとその後方に拾い集めた埃を収容する2.5メートル幅のちりとりを取り付けました。以前には一本の箒で済ませていたこの作業も、この発明機械は収容置き場をかなり占領することになりますが、効率は十分に上がりました。

     それからレオナルドは洗浄器、細かく刻む器具等を発明しようと試みたほかにも、調理場の隅に馬力による水汲み水車を建造しようと考えました。

     彼の発明で並外れて巨大なものとなったのは牛のひき肉機でした。この考案図形はバチカン図書館とイギリス・ウィンザー城に在る大英国女王コレクションに収められています。どちらかの一つは弟子が書き写したものであるとも巷では言われています。このひき肉機の部品を見ると、現在使われている豚や羊などの肉を挽いたり、混ぜ合わせる機械に使われているものと非常に類似していることも事実であります。

     また空力によって動くパンの薄切り機も彼の発明の中に入ります。パンを薄く切った後、細長い棒さおに突き刺す仕組みで、この機械は「カステージョ」にあった古い台所の二倍の大きさにもなり、改築工事執行の際には隣の建物の兵器博物館はふさがれてしまうであろうと忠告しました。またルドヴィコにも彼の調理場拡大計画に基づけばカステージョの大晩餐サロンの半分は調理場となり、そのサロンに隣接した厩舎とルドヴィコの母親が使用している六つの部屋は野菜倉庫兼屠殺場として改築したいことを申し出ました。

     台所における音楽についてはこう考えました。彼が以前に発明、製作した太鼓(ハンドルを回すと、その先に備え付けられた何本かのスケッキが音を奏でる仕組み)と「口の器官」と名づけた発明楽器を三人の音楽家が奏でるものでした。

     悪臭と湯気を取り除く件は一頭の馬が動くことによって回るクランクハンドルを木槌につなげ、木槌が叩くごとに天井に取り付けたアコーディオンのような送風機が排気する仕組みでした。

     飲料用の水がめに群がるカエルを退治するに当たっては、カエルが水がめに飛び込むワンステップ前に、飛ぶであろうというところにばねを取り付け、ばねが動くと木槌がカエルの頭をゴツン叩き、気絶してしまうといった単純な罠です。

     最初のリストに書き込まなかった発明の中でも、特に台所に関する革新的な付属品として、火災が起こった際の消火器でした。この消火器が作動した際には台所は雨が降ったかのように水浸しになるという奇才な発明でした。

     これらの器具はレオナルドが彼の台所のために発明したものですが、すべてが万事うまく起動するとも、完全に計画どうりの効果を出すとはいえませんでした。というのも、彼はいつでも実践よりも理論に長けていたからです。

     そうして実際に改築工事が始まり、古い壁は壊され、新しい壁がたちました。その工事の間、ルドヴィコも宮廷人も当然のことながら食事することはできず、友人の食事に招かれたり、ビジェバーノにあるルドヴィコの別荘地に移らなければならなかったそうです。

     そうこうして、この改築工事が万事うまくすすんでいる最中、レオナルドの画家として飛躍する絶好の機会のひとつとなった依頼がありました。その依頼主はミラーノの〔無限罪御宿り友愛会〕で、誰もその依頼を断らないほど影響力のあった団体でした。依頼作品は聖フランチェスコ・エル・グランデ教会の祭壇背後の飾り衝立画で、その一番重要な中心の絵画をレオナルドに描いてほしいという申し出でした。この当時画家の一番の依頼主はカトリック教会で、その中でも、有名な教会の祭壇背後の飾りついたてを描くのは名誉なことでありました。レオナルドは彼の料理人として成功する絶好のチャンスの瞬間にいたのでまったく絵を描こうとは思わず、それでも、この権威ある会の要請に断ることも出来ず、フィレンツェから持参した〔岩窟の聖母マリア〕と題する絵画がその衝立にもってこいであると提案しました。ところが教会の衝立の大きさと、レオナルドの絵画の大きさには差異がありました。依頼主はレオナルドの調理場改築工事についての境遇を察し、オリジナル〔岩窟の聖母マリア〕のコピーを教会のついたての大きさに合わせて描くということで、渋々納得せざるを得なかったそうです。

      岩窟の聖母マリアの絵画依頼を受け入れ一度描き始めたものの、同時に調理場改築後のお披露目晩餐会のためのメニューを考えなければならず、こちらの方で頭が一杯で絵を描くことへの集中力もなく、この依頼も他のたくさんの中途まで描いては置き去りにされていた絵画と同じように「別の日にしよう」と後回しにしていました。メニューの考案に取り掛かかった彼は、ルドヴィコが何枚かの美しいにんじんでは満足しないということを認識してましたし、更に、ミラノ地方の伝統的な土地物の材料を使用しなければなりませんでした。そうして、とても大きなパイを考案し始め、数えきれないほどのソースを試し作り、選りすぐれたソーセージ製造業者たちを招集し、晩餐での肉きり名給仕達を雇いました。そしてついに調理場の改築が終り、調理が出来る日が来ました。レオナルドは自分自身にも、また彼の調理法についての考え方にも忠実に思ったとおりに行動しようと努めていましたから、晩餐開始時間は11時と申し出で、オードブルは、各晩餐招待客毎に2枚のレタスの上にのせた大きな砂糖大根を誰にでもすぐルドヴィコの頭部と確認できる彫像を用意しました。この砂糖大根を彫る作業にあたっては、レオナルドは料理人たちの抗議に対して立ち向かわなければなりませんでした。というのも、料理人たちは野菜を彫刻するということまでは彼らの職務には入らないと考えたからです。そうして、レオナルドはミラノ中のアーティストや彫刻家を集めてきてこの砂糖大根の彫刻を実行しなければなりませんでした。そんなわけですから、この増員で更に調理場はひしめき合いの雑踏と化してしまい、またどうしたもの、シャワー状の消火器が起動し始め、誰もとめることが出来ず、この操作不可能な機械に身の危険を感じた二人の料理人たちは鎧を要求しました。 その間、以前よりも小さくなったカステージョ・大晩餐サロンで、ルドヴィコ、招待客、宮廷人たちはすでに席についていました。一時間食事が出るのを待っていた間に、調理場からはとても奇妙な叫び声や、爆発音、金切り声、機械のとてつもない騒音が聞こえていましたので、ルドヴィコは何人かを連れいったい何が起こっているのかと見に行きました。

      スフォルツァ宮廷内のフィレンツェ大使のサッバ・ダ・カスティグリォーネ・ディ・ピィエトロ・アレマンニは毎月フィレンツェ公宛に報告書を送っていましたが、ルドヴィコに付き添って調理場に行った彼は、目のあたりにした調理場の情景をこのように記録しました。

 

レオナルドコック長の調理場は大混乱でした。ルドヴィコ公が私に申しましたことによりますと、この何ヶ月に渡る努力は人件費削除の目的でありましたが、改築以前には二十人の料理人が働いておりましたものの、現在では百人ほどが調理場に密集しており、私が見た限りにおいては誰一人として調理をしておりませんでしたし、床や壁のいたるところに備え付けられた巨大な機械を操るのに皆精一杯の状態で、しかも、それらの機械はどれをとっても能率のあるものとも、またその作られた目的を果たす代物ともとても言い難いものでした。

調理場の奥の隅には馬が引く巨大なる水汲み水車があり、滝のごとく噴水して、その下を通るものは全てびしょ濡れになり、床はまるで湖のように水浸しとなっていました。巨大な送風機はひとつひとつが3.5メートルの長さで、天井から吊り下げられてシーシー、ごうごうと、うなっていましたが、火の煙を排出する目的だったものも、逆に火を煽るものでした。そのために荒れ狂うほどの炎はその近くで作業する料理人たちにとって大変危険な状態でしたし、何人かはバケツを手にどうにか炎を調整しようとしていました。そんな状況でありながらも、天井の隅という隅からは消火目的の水があふれ出てていました。

    この大惨事的な場所には、いたるところ、あちらこちらと馬や水牛が動き回っていました。何頭かは機械を動かす目的のためにただぐるぐると回っていましたしが、その回転がなんの役に立たないようでも、ただただグルグルと回り続けていました。また別の何頭かは、レオナルドコック長が発明した床磨き機を引きずっていました。床は効果的に綺麗になりますが、しかしながら、その後部には、馬の排出物を掃除する人間の集団がついていました。

    また別の場所では壊れた牛のひき肉機を見ました。膨れ上がった牛の半身が機械の外にのぞいてる状態のまま機械に引っかかっており、何人もの人が必死に梃子を使って引き抜こうとしていました。そしてまた、別の場所ではレオナルド巨匠の発明した自動薪運搬機を停止することが出来ずに次から次へと燃料が投げ込まれ、以前は二人が薪を火元に運んでいましたが、その時には十人がかりで薪を運搬ベルトから抜かなければなりませんでした。

    サロンで聞いた叫び声は、あわれな不遇な料理人たちのものでした。彼らは抱き合いながら呼吸困難になるほどに叫んでいたのです。と言うのもレオナルドコック長は火種を使わずに、火薬によって火をおこすことにと執着したからです。その火薬の炸裂音のみならず、太鼓は更に音を繰り返しながら鳴り響き続けていました。しかしながら、別の音楽隊・口の器官と呼ばれたオルガン奏者たちはおそらくもうすでに息絶えかねたように思えます。以前にも申し上げたように、レオナルドコック長の調理場は大変な混乱でしたので、ルドヴィコ公をとても満足させるとは思われません。

 

 

     ルドヴィコとフィレンツェ大使を含めた同行人が大混乱の調理場を離れ、それから終に悔しゅんしたレオナルドは晩餐会サロンに姿をみせ、お椀に盛られた砂糖大根を招待客に薦めるとともに、同時にお詫びをしました。レオナルドが天才であると認識していたルドヴィコではありましたが、レオナルドがまだ実行に移していない調理場の発明機があると言うことで、是が非でもこの宮廷の調理場から彼を出してしまおうと試みました。彼の明晰なる考案を褒め称え、即座に郊外に出向き休養を取り、しかもそこで当時ルドヴィコの愛人チェチェリア・ガッレラーリの肖像画を描くようにと言い聞かせました。  

ポーランド、チャルトリスキ美術館所蔵 レオナルド・ダ・ヴィンチ【白貂を抱く貴婦人】 54.8 x 40.3cm.木板上に油彩画

 

 

ミラノ時代 

『最後の晩餐』

     レオナルドが何年かの間やる気も無くスフォルツァ宮廷の貴婦人たちの肖像画を描いているあいだ、カステージョ宮殿は、相対的な静けさを保ち続けます。レオナルドは、祭壇背後の飾り衝立画を描かないための言い訳を探しては、マサパン、砂糖、ゼラチンで、橋や要塞の模型を作っていましたが、宮廷人たちは是が非でもレオナルドを調理場から遠ざけておくために、ありとあらゆる類の作業の委託をするのでした。『偉大なる馬』という名で知られていたルドヴィコ公の父の粘土馬上彫塑を着手するまでにもいたります。しかしながら鋳造するために必要な量の青銅料を出費できないというルドヴィコ公の意向で、完成を見ませんでした。巨大なるクレソン刈り機を発明し、製造しますが、試運転実演会をスフォルツァ宮殿近くのクレソン畑で行った際には調理場の6人のスタッフと3人の庭師の命を奪ってしまいます。(後にルドヴィコ公は、フランス侵略軍に対して使用し、その威力はすさまじかったのでした。)

     この時期のレオナルドにとっての一番のくつろぎは、1490年に行われたルドヴィコ大公の甥のジアン・ガレッツォ公爵と、ナポリ国王の孫に当たるイサベル・デ・アラゴン嬢との婚姻を祝うパーティと同様、宮廷が許可するときに限ってレオナルドが企画・実行する仮装パーティや仮面舞踏会でした。給仕たちはさまざまな野生の獣や、レオナルドが考案したもつれた透明の糸の網の仕掛けで、まるで空を飛ぶように見える鳥たちに仮装してはサービスをし、広大な宮殿の中庭を「妖精の国の密林」へと様変わりさせます。(このパーティのためにデザインされた仮装ドレスは英国のウィンザー王国収集所蔵として保管されています。)次々と運ばれてくる結婚式の晩餐会のご馳走(調理に関してはレオナルドは一切許しを得なかった)の合間の休息の際には、テーブルとテーブルの間を渡り歩く、曲芸師、火を呑み込む男、小人、腹踊りなどの仮装行列を企画します。そして晩餐会の後には、宮廷詩人のベルナルド・べジンチオーニの詩の朗読会があり、その朗読のために、空中で回転する幾つかの惑星と、6メートルの高さから流れ落ちる滝と、空中で消えてなくなる象を考えつきます。

     二年後に祝されたルドヴィコ大公とベアトゥリス・エステ嬢の結婚式の準備の際には、前回の豪華絢爛な婚姻パーティを上まる企画をしようと試みます。それはパーティをパイケーキの中で行おうというものでした。宮殿の中庭に作られた60メートルの長さのスフォルツァ宮殿複製のパイで、パイケーキ地の種をあらかじめ型に取り、胡桃と干しぶどうで補強されたポレンタ(とうもろこしの粉を水で溶いたもの)の塊と何種類にもわたる色とりどりのマサパンで覆われていました。結婚披露宴の招待客たちは、パイケーキの扉をくぐって、パイケーキの机の前に並んだパイケーキの腰掛椅子に座り、もちろんのこと、パイケーキを食べます。

     レオナルドが考慮に入れなかったのは、ミラノ中のあらゆる大形ねずみや鳥類たちをこのパイケーキの建物に引き寄せる力でした。結婚式の前日の夜には、郊外の田園から数え切れないほどのドブネズミや鳥類が駆けつけてきました。ルドヴィコ大公の家来たちは一晩中このネズミたちや鳥たちを相手に野戦を挑んで過ごしますが、夜が明けたときには、中庭は巨大なるパイケーキの建物の崩れ落ちた残骸で覆われて、家来たちはねずみの屍骸を始末するために腰までの高さのパイケーキのかけらを掻き分けながら動かなければならないほどに荒廃していました。そんなわけで婚姻を祝う晩餐会は別の場所で開かなければならず、宮殿の前の平地へと移されました

     ルドヴィコ大公は、今回に関してもまたレオナルドに対して多大なる寛容な態度を示しましたが、それはおそらく新婦の影響であったのかも知れません。というのはレオナルドはベアトリス夫人のすばらしい肖像画を描いたばかりで、夫人がポーズを取っている間、レオナルドがなぞなぞで疲れることもなく楽しませていたことで、夫人はとても機嫌よく過ごしていたのでした。しかし、ついにはルドヴィコ公は、多方面分野にわたるあふれるレオナルドの才能を宮殿の外でも評価されてもよいのではないか、と暗示するにとどめるのです。そうしてサンタ・マリア・デレ・グラッツェの食堂サロンの無垢の壁に描く画家を探していた修道院長を訪ねてみてはどうかと助言します。

     この壁に描かれたフラスコ画は『最後の晩餐』でした。彼の生涯のうちの三年間をこの壁画を制作するのに費やすものの、その期間中には、仕上げの延期の言い訳を探す時間よりも実際に描く時間は少なかったのでした。レオナルドの絵画の中で最高の作品となるこの壁画に、修道院長が提示した題材は相かなったものでした。というのもお気に入りの『食事』だったからです。壁に描く題材が、生涯にわたって彼の興味の対象である食事であるように、完璧なる理由を提示する必要がある、と友人であり小説家のマテオ・バンデーリに当初から打ち明けたように、レオナルドは始めから題材が食事であることに強い意志を示したそうです。実際のところ過去に描いたいくつかの作品の中には、一般的には絵画のもっとも卓越した精神的な題材を考慮したものだったにもかかわらず、彼にとってはそれらの題材は失望的だったということは、レオナルドらしい逸話でした。マッテオ・バンデーリが語るところでは、依頼された最初の一年間、レオナルドが唯一したことは、時々カステージョ宮殿からサンタ・マリア・デレ・グラッツェ修道院の食堂サロンまで散歩しては、何時間かの間描く壁をただただ見つめるだけだったといいます。

     後の1495年の暮れには何ものっていない長いテーブルとそのテーブルに置くための食べ物とワインを食堂に持ってくるようにと修道院長に申し立ててから、レオナルドは毎日弟子たちと出向いてはデッサンする前に毎回テーブルに料理とワインを配置するのでした。

     1496年の聖週間(毎年3月か4月)には、レオナルドの奇妙な振る舞いに当惑した修道院長はルドヴィコ公に書状を出します。

 

ルドヴィコ公陛下。この壁画の制作のために巨匠レオナルド氏を派遣していただいた日から12ヶ月以上の歳月が経過いたしましたが、この期間私どもの壁にはただひとつのしるしも刻まれていりません。陛下、このあいだ修道院のワイン貯蔵室は多大なる減少損害を受けた次第でございます。レオナルド師匠は傑作壁画のために、唯一師が納得するふさわしいワイン以外は一切受け付けないという姿勢で、すべてのワインを試飲することに固執したのでございます。そしてこの間、私どもの修道士たちは空腹状態ですごした次第です。というのはレオナルド師匠は私どもの調理場で朝晩問わず師の思うままに調理を行い、テーブルにもっとも相応しい食事と師が認めるまで調合を続けるのでございます。そうして日に二度弟子たちと召使たちと座っては作った食事をすべて食してしまいます。陛下、どうか作品の制作を急ぐように、はからいをいただきたく存じます。というのも師と助手たちがこのまま居ることによって、極貧の状態に私たちが差し迫っているからでございます。

 

 

グルク司教区のライムンド・ペロー司教は9ヵ月後の1497年の1月に食堂サロンに居たレオナルドを訪ねます。司教の付随した記述は、修道院長がルドヴィコに語ったことと、一致していました。インスブルックの上役に送った書状があります。

 

レオナルド師匠は壁面に、原寸大の柱とテーブルの輪郭の下絵を描き、壁面の下方に長いテーブルを作り、私が推測するところでは幾人かの助手たちが顔料を混合するのに忙しそうに見えました。そして料理とワインのデカンタのつぼを運んできては、レオナルド師匠はそれらを素描する前に観察しては配置をしなおすのでした。そして働く助手たちに料理とワインを飲食するように言います。修道院長が私に伝えたところによれば、師匠がこの壁画の制作を始めた当初からずっとこのような毎日ということでございます。師匠レオナルドは、テーブルの上にのせる物に関してのみ関心が強く、現在の時点においては、テーブルにつく予定の会食者たちは描かれておりません。

 

 

     2年9ヶ月は当然のごとく長い期間でした。その間にんじんのスライスを添えたゆで卵から、ズッキーニの花つきの大鷭のもも肉、カブのピューレやうなぎの輪切りまで、といった料理の下絵をたくさん描いたとはいえ、下絵どまりでした。

     マッテオ・バンデーリによると、これらの料理は『最後の晩餐』に描くために、この長い期間を通して、レオナルドによって選択された料理のメニューであったそうです。もしかしたら、この壁画の崇高なる重要点は、レオナルドが選んだ簡単で質素な料理にゆだねられるのかもしれません。ともかく、一度料理が決められたからには、壁面にすでに描かれたテーブルの上にこれらの料理の外郭をつけるのでした。人物を描き、壁画を描き終わるのに三ヶ月しか残ってませんでした。特に注目することは、実際に何杯ものワインを試食したあとで、壁画のなかの会食者たちの前にはいずれかの類の赤ワインが入っていたのだろうという形跡の残ったほとんど空のグラスだけが残るのでした。

     こうしてレオナルドはサンタ・マリア・デレ・グラッツェの壁画の制作を終えました。しかしながら、レオナルドの弟子たちが壁画用の下塗りをあまりに粗末に準備したことが原因で、レオナルドが会食者たちを描き終わるころには、料理の部分が剥げ落ち始めたほどであります。二年後にフランス国王ルイ十二世がこのすさんだ状況の壁画を見たときに、唯一述べたことは、「ずいぶんと歴史のある壁画なんでしょうな。」でした。そうして壁画がレオナルドの作品であることを告げたときには、ルイ十二世は信じることができませんでした。

     『最後の晩餐』を描き終えたレオナルドにとって、以前のように常軌を逸した料理への関心が過熱することがありませんでした。うなぎの輪切りやカブのピューレ、ロールパンを描いたことによって、料理に関しての最終的宣言を果たしたかのようでした。ともかくその時点においては、少なくともほかの事項に捧げることができるかのように見えました。

     名声が高まってきていたとはいえ、経済的問題は相変わらず抱えていました。1495年にはルドヴィコ公に宮廷からの給金支払いの延滞を嘆く簡素な文書を送らなければなりませんでした。

 

 

ルドヴィコ公殿。50デュカドスだけで、36ヶ月の間に6人の弟子や助手たちを食べさせて来ました。この期間中に、陶工、鐘つき人、そして砲手をも含めた者たちは、規則正しく給金を受け取っていたと、小耳に挟んだしだいです。

 

 

    これがレオナルドが毎日修道院に弟子たちと助手たちを連れて行った本当の理由でした。マッテオ・バンデーリによれば、それからしばらくしてから、レオナルドは雇い人たちの維持費を得るために、カステェージョ宮殿内の使われていなかった調理場を使用し、助手たちが働く、一般市民向けレストランを開いたという噂が流れます。もしレオナルドの維持についての配慮不足が原因となっていたということをルドヴィコ公が意識していたのならば、大目に見たこともありえたことでしょう。その時点で、ルドヴィコ公は、フランス軍によるミラノ侵略の脅しの予測に立ち向かっていましたので、武器を用意するために可能な限りすべて節約しなければなりませんでした。そして対フランス軍の準備に関してはレオナルドに要請をしなければならなかったのです。しかし、その要請の前にレオナルドの経済援助不足の問題の解決を何らかの形にて修正しなければならなかったので、ミラノ郊外にある小さなブドウ畑を贈呈しました。(受け取ったレオナルドは直ちに女料理人の親戚に当たるジョバンニ・バティスタに任せ、できるだけ早くすべての収益可能な限りにブドウ畑を利用するように指示します。)そうしてその後、ルドヴィコ公は、フランス軍の侵略威嚇を予測してミラノ周辺のすべての要塞を変えることができるであろうかという解決策を得るため、レオナルドに視察するよう申し付けます。(この対フランス軍対策に関しては、レオナルドに全権委任するのでした。)

     レオナルドはそれらの要塞を訪れます。

     まだレオナルドは、金銭問題でルドヴィコ公にいらだっていたためか、または平穏の日々を予知していたのか、その時のために、有名ではない、一連のレストランにレオナルドの[新しい料理]を旅行者や一時の侵略者たちに給仕するようにと注文し、すべての要塞という要塞の軍需物資倉庫を空にし、調理場に改築するよう命令します。そんなわけで、その翌年、ルイフランス国王十二世がついにミラノに侵入したときにはすべての要塞はいとも簡単に堕ちるのでした。レオナルドは守備隊の指揮官たちにブドウ畑で採れたワインを売ることに固執していましたから、ミラノの兵士たちはフランス軍侵略のときには酔いしれていました。この戦闘においてのフランス軍の戦死者や負傷者たちは、ルドヴィコ公が利用したレオナルドのクレソン刈り機によるものでした。ルドヴィコはフランス軍の捕虜となり、レオナルドはフランスの占領下で、フランス料理を食べなければならないという嫌悪感にさいなまれる事を避けるため、友人のルーカ・パチオーリとともにミラノを去り、ベネチア一帯の食道楽めぐりに出かけるのでした。

(次回も続きます。。。)

 

 

puentefuente 2005年10月 レオナルド・ダ・ヴィンチの料理手帖 ©翻訳puentefuente    ;puentefuente home